大判例

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大阪高等裁判所 昭和42年(お)1号 決定

請求人

金森健士

右弁護人弁護士

岩田喜好

右金森健士に対する放火被告事件について、昭和一七年八月二一日大邱覆審法院が言い渡した有罪の確定判決(同年一〇月二六日京城高等法院において上告棄却の判決があり、同日確定)に対し、同人から再審の請求があつたので、当裁判所は弁護人及び検察官の意見を聞いたうえ、つぎのとおり決定する。

主文

本件について再審を開始する。

理由

第一再審請求理由

本件再審請求の理由は、弁護人岩田喜好作成の再審請求趣意書に記載するとおりであつて、その要旨は次のとおりである。請求人は、昭和一五年一二月初頃、大阪市大正区泉尾町所在の前岡製綱株式会社に採用され、昭和一六年一月初頃、右会社の子会社である朝鮮釜山府瀛仙町(通称牧之島)一八八七番地所在の朝鮮製綱株式会社と同一構内にある右同様前岡製綱の子会社である日本帆布合名会社釜山帆布工場において職工監督として就職し、妻子とともに同工場通用門ぎわの両社共用の事務室に隣接する社宅に居住していたが、昭和一六年一〇月二日夜勤勤務につき、工場内を巡視して、事務室内で数名の社員とともに両会社および前岡製綱株式会社釜山工場の三社合同による社内陸上運動会の準備をし、その終了後、午後九時一〇分頃、日本帆布工場内を巡視し、午後九時三〇分に事務室で休憩の合図の鐘を鳴らし、午後九時四五分に休憩終了、作業開始の合図の鐘を事務室の前で鳴らした後、事務室内にいたところ、事務室の前をさつと通り過ぎ、小門の内側にある旋錠した高さ四尺(一二一センチメートル)ぐらいの柵を乗り越えて行つた人影を認めたが、その後まもなく、当夜夜勤者のいなかつた朝鮮製綱の工場の粗紡部付近から出火し、朝鮮製綱の工場だけが全焼するに至つたが、請求人は出火を知つて、直ちに帆布工場で夜勤の中女子工員を構外に避難誘導した、右火災後、前岡英明、岩田祥一ら両会社の幹部および請求人を含め日本人社員ならびに千代田火災海上保険株式会社大阪支店社員中江、代理店員須田ら十数名が次次に逮捕され、焼失した工場が火災保険料を一回支払つたのみの状態であつたので、保険金詐欺の疑いがかけられ、ほとんど全員が三〇日ないし六〇日間拘束され、会社幹部からの指示で放火したとの想定のもとに、後手に縛つて急激につり上げるいわゆる飛行機責めや、仰むけにされて鼻に水を流しこむなどの拷問が加えられたが、日本帆布の韓国人女子工員である当時一二歳ないし一八歳くらいの平治任珠、勝田尚任、崔相今、呉乙任らも逮捕され、取調中に、そのうちの二名が「通用門の内側にある高さ四尺の柵を飛び越え、当時開いていた通用門を走り抜けて逃げて行く放火犯人の後姿を見た。それが金森に似ていた」と供述したため、請求人はさらに拷問を受け、これに耐え切れなくなつて自分が放火した旨虚偽の自白をするに至り、刑事訴訟の知識がないため、検事調べ、予審調べも同一体と思い、平賀右内検事(韓国人)に対しても同様の自白をし、放火の事実により起訴され、松田予審判事の取調を経て公判に付され、昭和一七年六月三〇日釜山地方法院において有罪の判決を受けたので即日控訴し、控訴審で事実を争つたが、同年八月二一日大邱覆審法院において、「被告人は、日本帆布工場長小路梅市と平素折合が悪く、被告人と小西由之助の両名が取扱つていた職工出勤簿を坪金人事係長に取扱わせることにしたのも、小路がその妾の女工監督金月貴らの策動により独断したものと邪推して、小路に反感を抱き、かつ昭和一六年一〇月二日午後九時三〇分頃、工場事務室内において職工運動会の準備をしていたのを小路から注意されたのに憤慨し、小路を失職させて復しゆうしようと決意し、同日午後九時四五分頃、朝鮮製綱株式会社工場内の製綱原料である大麻仕掛品に所携のマツチで点火して、同工場二棟およびこれに隣接する職工等の現在する日本帆布釜山工場の板壁の一部を焼燬して放火した」という理由で懲役一五年に処せられ、即日上告の申立をしたが、同年一〇月二六日京城高等法院において上告を棄却され、右控訴審の有罪判決はここに確定し、即日刑の執行を受け始め、大邱、京城、大田、釜山各刑務所を転々とし、終戦後福岡、熊本各刑務所に移監せられ、昭和二二年一一月二四日仮釈放により熊本刑務所を出所した。しかしながら、右放火事件は、請求人がしたものでは断じてなく、真犯人は当時の中共八路軍のスパイと称せられる于文柱(または禹文柱、以下同じ)である。すなわち、請求人は、仮釈放後、終戦後の混乱期の生活苦と戦いながら、刑事訴訟手続についての知識に乏しいことをかえりみず、ひたすら自己のえん罪をはらすため、昭和二六年七月福岡高等裁判所に無実を訴えて刑事補償の請求をし、昭和三一年一一月最高検察庁に無実を訴えて再審手続の協力を申し出、昭和三二年一一月大阪市城東区役所特設人権相談所をおとずれて相談し、大阪法務局人権擁護部の調査協力を受け、昭和三三年一〇月二日再度最高検察庁に前同様の申し出をするなどしたが、いずれも徒労に終り、昭和三四年五月三日当時釧路地方裁判所網走支部に在勤していた松田伝治裁判官に書簡を送り、同裁判官から「再審は手続上資料不足のため困難ではあるが、できるだけ協力する」旨の返信を得、その頃大阪市城東福祉事務所法律相談所で弁護人岩田喜好に相談し、その後、同弁護人において、請求人の本件放火被告事件および昭和一九年頃于文柱の国防保安法違反等被告事件の予審を担当した当時の釜山地方法院予審判事松田伝治、于文柱の取調に当つた当時の釜山地方法院検事局検事長谷川寛、右松田判事の予審立会書記として于文柱の予審取調に立ち会つた林秀成(現韓国弁護士)、元釜山地方法院検事局検事朴成大(現韓国弁護士)ならびに当時朝鮮製綱株式会社工場長として于文柱の現場検証を目撃した岩田祥一らについて調査をかさねた結果、請求人に対する有罪判決確定後の昭和一八年一二月頃、中国人于文柱が国防保安法違反等で釜山憲兵隊に検挙され、憲兵隊で数件の放火を自白し、長谷川検事は于文柱の取調に当つて、同人の自白する放火の中に、すでに請求人が有罪判決を受けた本件放火の事実があることを知つて慎重に取り調べたうえ、右事実を含め于文柱を釜山地方法院に起訴して予審を請求し、前に請求人に対する予審を担当した松田予審判事は、于文柱を連行して工場長岩田祥一ら立会のもとに現場検証を行ない、于文柱に通用門の内側にある柵を飛び越えさせ、前に請求人に対する予審の際に取り調べた韓国人女子工員二名について再度現場で取り調べた結果、女子工員らはともに以前の供述をひるがえし、于文柱の後姿が犯人によく似ている旨の証言を得るとともに、昭和一九年八月七日、証人として当時服役中の請求人を尋問した結果、無実である旨の証言を得、于文柱の自白が真実であるとの裏付けを得たので、于文柱につき有罪の予審終結決定をして公判に付したが、終戦前後の混とんとした事態のため、于文柱に対する処理がどのようにされたかは不明であるとの事実が判明した。よつて、前記確定判決の事実認定は誤認であり、真犯人の発見に関する長谷川寛、松田伝治、岩田祥一ならびに熊本刑務所保管の請求人に対する視察表等の各証拠方法は、いずれも、旧刑事訴訟法四八五条六号にいう再審請求人に対し無罪を言い渡すべき明確な証拠を、あらたに発見したときに該当するから、請求人に対する大邱覆審法院判決謄本写、熊本刑務所長から大阪弁護士会長に対する回答書、松田伝治、長谷川寛、岩田祥一、朴成大、林秀成各名義の陳述書、事件前における工場入口の写真二葉、ならびに本件再審の管轄指定に関する書類の謄本を添付して、本再審請求に及ぶ、というのである。

第二記録の保存状況

本件再審請求の対象である確定判決は、終戦前の昭和一七年八月二一日に、当時日本の統治下にあつた朝鮮の裁判所で言い渡されたものであつて、終戦後韓国の独立に伴い、その記録の保管も日本の手を放れたのであるが、朴成大名義の陳述書によると、刑事公判記録ならびに捜査記録は保存期間経過により廃棄処分され、永久保存文書であるべき判決原本は日本統治下のものに限り廃棄せられ、予審終結簿、刑事公判事件簿も終戦直後の混乱とその後のいわゆる朝鮮動乱のために一部散逸し、残存しているものは大法院の指示により法院永久保存文書中央管理所において保管中であるが、金森ならびに于文柱関係の文書は全く見当らず、また、当裁判所の嘱託に基づき韓国政府において調査した結果によつても金森の本件被告事件記録および于文柱の国防保安法違反等被告事件記録を発見するに至らなかつた。そして、本件に関係あるものとしては、わずかに、請求人が終戦後在監した熊本刑務所に保管の請求人に対する大邱覆審法院の判決謄本、刑執行に関する書類、請求人に対する在監中の視察表等が存在するに過ぎない。

第三当裁判所の収集した資料と事案の概要

于文柱は、第一審公判中終戦となり、釈放せられて所在不明となり、逃走犯人目撃者という韓国人女工ら、請求人金森の放火の動機に関係があるとされている小路梅市、ならびに請求人金森を取り調べた警察官、検事の所在も不明である。当裁判所は、本件再審請求記録を検討し、事実の取調をし、証人として、元釜山地方法院予審判事松田伝治(現在公証人)、元同法院検事局検事長谷川寛(一、二回)(現在弁護士)、元釜山憲兵分隊特高班長憲兵准尉森下保雄、元同憲兵分隊憲兵軍曹大橋光男、同憲兵軍曹堤初男、元朝鮮製綱株式会社ならびに日本帆布合名会社各代表取締役毛利一男、同各工場長岩田祥一、元朝鮮製綱株式会社社員松村正治、同林田重生、請求人本人、検察官提出の熊本刑務所長から大阪高等検察庁検察官あての回答書(大邱覆審法院の判決謄本および朝鮮刑務所の視察表の各写添付)、弁護人提出の工場の写真三八葉、写真撮影位置図を取り調べた。

まず、本件事案の概要についてみるに、本件再審請求の記録および当裁判所の事実取調の結果によると、終戦前釜山所在の朝鮮製綱株式会社は軍の管理工場でロープ等の製造をし、日本帆布合名会社も軍関係工場で帆布、テント等の製造をしていた会社であるが、請求人が昭和一六年一月初頃、大阪から釜山に渡り、日本帆布合名会社釜山帆布工場の技術員兼職工監督として就職し、妻子とともに工場事務室に隣接する社宅に居住していたところ、同年一〇月二日夜勤勤務中、同工場に隣接する兄弟会社である朝鮮製綱株式会社の工場内粗紡部付近から出火して、朝鮮製綱の工場が全焼し、同工場に隣接している日本帆布の板壁のごく一部が焼け、右火災の翌日頃から請求人を始め、前岡英明、毛利一男、岩田祥一ら両会社の幹部、林田重生、山本誠一ら社員、ならびに千代田火災海上保険株式会社社員の中江、同代理店主の須田、火災鑑定人の高本ら数名が次々に釜山警察署に検挙され、当初は保険金詐欺放火の容疑で取り調べられたが、その疑は晴れたものの、韓国人女子工員らが「逃げて行く犯人の後姿が金森によく似ている。」旨述べたため、請求人は警察、検事局で放火を自白するに至り、釜山地方法院に本件確定判決と同旨の放火の事実により起訴されて予審に付され、松田伝治予審判事の取調を受け、昭和一七年三月一八日有罪の予審終結決定を受けて公判に付され、同年六月三〇日同地方法院において有罪の判決を受け、即日大邱覆審法院に控訴の申立をしたが、同年八月二一日同覆審法院において懲役一五年に処せられ、即日上告の申立をしたが、同年一〇月二六日上告を棄却され、ここに右控訴審判決は確定し、同日より刑の執行を受け始め、大邱、京城、大田、釜山の各刑務所を転々とし、終戦後、福岡、熊本各刑務所に移監せられ、昭和二二年一一月二四日仮釈放により熊本刑務所を出所し、同三二年一〇月二五日刑期満了によりその刑の執行を受け終つたこと、ならびに仮釈放を受けた後、請求人が大阪市内において王冠製造業を営みながら、本件放火について無実を訴えつづけ、所論のような経過を経て本件放火の真犯人は于文柱であることを理由として本再審請求に及んだことが明らかである。そして、右確定判決である大邱覆審法院の判決は、その事実理由において、「被告人は、昭和一六年一月上旬頃より釜山府瀛仙町一八八七番地朝鮮製綱株式会社と同一構内にある日本帆布合名会社釜山帆布工場において職工監督として勤務しおりたるものなるところ、平素より同工場長小路梅市との折合悪しく、偶、同年九月二三日同工場長が予てより同工場の職工監督たる被告人並小西由之助両名の取扱に委ねられありたる職工出勤簿を同工場人事係長坪金亀太郎に取扱はしむることと為したるにより、これは同工場長がその妾なる同工場女工監督金月貴当三五年及同女をめぐる女工十数名の策動により独断的になしたるものなりと邪推し、これがため被告人は職工に対し職工監督として面目を痛く失墜したるのみならず、今後職工監督たるの威信を保持し難き事情に立ち至るべきを慮り、少からず同工場長に対し反感を抱きおりたる折柄、同年一〇月二日午後九時半頃同工場事務室内において数名の事務員らとともに職工運動会の準備を為し居りたる際同工場長より監督者が自分の受持仕事もせず無用の事務所におるは不都合なる旨注意せられたるにより、遂に同人に対する忿懣の情押へ難く、寧ろ同工場を焼払ひ小路工場長をしてその責任上失職せしめて復讐せんことを決意し、同日午後九時四五分頃、右帆布工場に隣接せる朝鮮製綱株式会社工場内の粗紡部の一偶に積み置きありたる製綱原料たる大麻仕掛品に所携の燐寸(証第三号)を以て火を点じて放火し、因て右朝鮮製綱株式会社工場木造亜鉛葺平家建二棟建坪六一七坪、設備機械在庫品等(損害約八二万円)及これに隣接せる職工等の現在する右帆布工場の板壁一部高さ約五尺幅約三間を焼燬したるものなり」と認定し、その証拠理由において、一審判決の証拠理由中「被告人の当公判廷における」とあるを「原審公判調書中」と、単に「供述」とあるを「供述記載」と訂正するの外、同判決に説示するところと同一であるからこれを引用する、旨を記載しているにすぎない。したがつて、右確定判決が被告人の一審公判調書中の供述記載の外にいかなる証拠をもつて事実を認定したものかは、原判決文自体からは明らかではなく、また右一審公判調書中の被告人の供述記載も放火の動機に関するものか、放火の実行行為そのものに関するものか、あるいはまた、その双方に関するものであるかも明らかではない。有罪認定の証拠としては、放火の動機に関する関係人の供述があるであろうが、その外に、当裁判所の証人松田伝治、同長谷川寛および請求人に対する尋問の結果によれば、被告人の自白(警察官、検事、予審判事、一審公判廷のいずれにおけるものであるかは明らかではないが、おそらく予審判事に対するものか、公判廷におけるものであろう)と日本帆布工場の女工員らの犯人の後姿が金森によく似ていたとの供述(警察官、検事、予審判事のいずれに対するものであるか明らかではないが、おそらく予審判事に対するものであろう)が有罪認定の決め手の証拠とされていたことがうかがわれる。

そこで、当裁判所が取り調べた各証拠資料の要旨についてみると、

(一)  証人長谷川寛は、一、二回にわたる証言を通じ、「私は昭和一八年三月から昭和一九年七月まで釜山地方法院検事局検事として勤務した。昭和一九年四月頃と思うが、釜山憲兵隊から、于文柱が昭和一六年一〇月頃から昭和一八年末頃までの間に五回にわたり治安攪乱の目的をもつて、釜山埠頭の陸軍倉庫、牧之島の朝鮮製綱、釜山宝水町の日韓市場、仁川の映画館、京城の料理屋に放火したという于の単独犯行にかかる事件の送致があつため事件送致を受けて間もなく、まだ事件の取調が進んでいない頃、事件の性質上、松田予審判事に予審請求について話した折に松田判事からか、または憲兵隊からであつたか、あるいは現場で女工たちを調べたときに聞いてから確かめたか、そのあと先ははつきり記憶しないが、送致事実中の朝鮮製綱に対する放火事件については、既に金森なる者が有罪判決を受けて服役中であつて、松田判事がその予審を担当したことを聞き、これは大変なことだと思い、朝鮮製綱に対する放火事件の捜査に文字どおり全力を尽した。私は事件送致を受けてから于文柱の身柄を憲兵隊から釜山刑務所に移したが、初め于文柱は憲兵隊できつい拷問を受けたと言つて衰弱していたので、刑務所で休養をとらせ、その回復した頃に、于文柱の憲兵隊での自白にとらわれずに、まず于から、朝鮮製綱への侵入、放火、引揚げまでの状況について、独自の観点から供述調書をとり、次に同人を現場検証に同行し、同人に指示説明させるとともに、犯人を目撃したという韓国人女子工員の李徳順、金粉伊、李淑伴、外一名の四名、女子工員監督の韓国人の金某という男を現場で立ち会わせて取り調べた。于文柱はその当時、何年着ているかわからないという、よれよれの国民服を着ていたが、同人は私に対し、「自分は、中国本国からの秘密指令により本国諜報機関のメンバーとして京城の本部の指令に基づいて活動していた。朝鮮製綱に対する放火の当夜、マツチを携行して、同工場の小さい通用門があいていたので、そこから構内にはいり、すぐ右手、門の脇にあつた二坪ばかりの工員の休憩室のような建物にはいつた。はいつたとたん、目の前の棚の上にマツチの小箱があつたので、とつさにこれを取り、入口と反対側の板壁がこわれていて機関室に通じるような穴があいていたので、そこを潜つて機関室を通り、製綱の機械設備のある部屋の方へ行つた。粗紡機の北側付近の床に粗紡の麻屑が散らばつていたので、それを掻き集め、棚上から取つたマツチを二、三本すつてこれに火をつけた。火をつけた付近は、少し離れた南側の部屋に弱い光の電燈がついていて、その薄ぼんやりした光で動作をするには支障がなかつた。火をつけてから急に恐怖心が出て、あわてて、そのつけた現場から、はいつて来た方向とは反対側に、その部屋の外(煉瓦の外壁の内側)に出、その部屋の西側通路を南へ行つたところ、人の声が聞え、構内にある朝鮮製綱工場への出入口の両開きの扉付近に来たとき、じやんじやん鐘が鳴つたので、てつきり自分が発覚したと思つて、その扉に体当りしたところ、簡単にあいたので、正門に通じる空地に出、正門のところに来たが、前にはいつた通用門の扉が締めてあつたので、夢中になつて正門(高さ約六尺)を飛び越えて逃げた。牧之島の手前まで行つて振り返つて見たら、火焔が上つているのが見えた。」と供述していた。また、女子工員四名に于文柱を見せる前に、右の四名を調べて、事件当夜、国民服を着て乗り換えて逃げたという犯人の後姿を詳細に聞いたところ、右の四名は、いずれも、『身長は五尺五寸前後(約一メートル六七)で、肩の線などはごくやせた形で国民服を着ていた。』と供述したので、そのあとで于文柱を見せ、その後姿をよく現認させたところ、右四名とも『ああ、この人の形によく似ていますよ。』と供述したので、私は、それならば、前にお前たちが金森が犯人だと言つたこととは違つているではないか、と言つて相異点を追及すると、右四名は『あのときは、自分たちの監督がお前たちが見たというのは金森に相違ない。国民服を着て小さいかつこうだといえば、金森よりほかにない。金森に間違いないと言われるので、私たちは金森が犯人だという信念はなかつたけれども、金森に間違いないと言つた。しかし、今こうして于文柱をよく見ると、この人の形の方がよく似ている。金森さんは非常にやかましかつたので、韓国人監督の間では金森に対し感情的に非常に反感を持つていたので、そのように押し付けたのではないかと思う。』と供述した。そこで、女工監督の金某(男)を取り調べたところ、同人は、金森に対して反感を持つていたとの点は否定していたが、『犯人を目撃した女工たちから、犯人は国民服でこういうからだかつこうのものであるということを聞き、そうすると、そういうかつこうのものは、当時金森よりほかにいなかつたので、私は金森じやないかと思い、そのようなことになつた。』と供述した。……于文柱の朝鮮製綱に対する放火については、いろいろの捜査の段階において、果して本人の犯行であるか否かに疑問を持つたが、最後に私が確信を持つて予審請求をすることができたのは、女工らによる于文柱の後姿の確認と、『放火の際、現場は、付近の部屋の弱い電燈の光で薄ぼんやりと明るかつた、逃げる途中鐘が鳴つた。』という于文柱の供述が、工場側の参考人について調べた結果判明した、当時現場に近い部長室に弱い光の電球がついており、また鐘は丁度そのとき仕事の上で時報として鳴らしたという事実と一致し、自白の自然性を確信したので、于の犯行に間違いないと思つた。京城刑務所で金森と対談したときの同人の述懐では、警察以来の自白と女工員の証言が決め手になつたと思われるが、私の考えでは、于文柱を調べ、工員や家族等関係者を調べた結果、金森に放火の目的がないから、こんな不自然な犯行が生れようがないと思う。かりに真犯人が于文柱ではなくて他にあるとしても同様である。これは今でも私の実感である。朝鮮製綱に対する放火については金森が起訴され有罪判決を受けていたので、検事正とも于文柱を起訴すべきかどうかについて相当論議をした結果、起訴相当の結論となり、昭和一九年四月下旬、右事件を含め五件につき国防保安法違反、放火、戦時刑事特別法違反等の罪名で于文柱を釜山地方法院に起訴し予審請求をした。そして、昭和一九年五月頃、松田予審判事の京城、仁川方面の検証に同行し、京城西大門刑務所に在監中の金森の証人尋問に立ち会つた際(注・初め証人尋問といい、のちにそういう形式はとらずに面会に行つたというが、後記のように、視察表写によれば、昭和一九年五月二〇日京城刑務所において長谷川検事の証人尋問があり、ついで同年八月七日大田刑務所において松田予審判事の証人尋問が行なわれたことになつていることからすると、京城刑務所での取調は長谷川検事によるものと考えられる。)、金森は、無実を訴え『警察官と検事の調べに対しては自白したようになつているが、せめて公判で真実を言つたならば覆えされると思つたので、それまではいたずらに認めておつた。有罪判決を受けて、初めて、こんな驚いたことはない。こんな馬鹿げたことはないと思つたから、控訴して徹頭徹尾無実を主張したが、そのままになつてしまつた。』そこで、私がつけ加えて、警察官や検事が韓国人だから本当のことが言えなかつたか、と言つたら、金森は『実はそうなんです。警察の拷問は一生忘れません。』と言つて泣き、『私が意気地がなくてこんなことになり、お手数かけてすみません。』と言つて事実を認めたことを後悔していた。松田予審判事は、于文柱の事件について独自の調べをされ、ほぼ私の捜査と同一内容が確認されたので、有罪の予審終結決定がされたように聞いているが、松田判事から私に、金森に対して検事としてどういう措置をとるのかという相談があつたので、私は伊藤検事正にその旨を相談したが、同検事正が『検事として今直ちにこれをどうこうということは言えないではないか。また時もあれば、何らかの方法を本人もとるのではないか。この際はこれに対する対策は見送ろう。』と言われ、そのままになつた。……私は検事在職中を通じて、こういう特殊な内容の事件は初めてで、また自分が直接関係していて、公的な検事の職務からしても一番感銘の深い事件であるから、本当に忘れようとしても忘れられない事件である。そういうわけで比較的記憶も明白である。」と証言している。なお、于文柱が朝鮮製綱に放火する際、あらかじめマツチを持つて行つたかどうかの点について、同証人は第一回目の証言の際には、「于は『行くときにはマツチを用意して行かず、工場の工員休憩場所か詰所のような部屋の棚の上にあつたマツチを使用した。』と供述したので、マツチを見つけてそこで放火の決意をしたのかと尋ねると、いやそうじやないと答え、どこから放火しようと思つて行つたのかと尋ねると、沈黙して答えず。そこの矛盾は未だに疑問である。しかし、証拠面では起訴しなければ仕方がないということで起訴に踏み切つた。」と証言していたが、第二回目の証言の際には、右の証言部分を訂正し、「前回の証言においては、ちよつと不十分であつた。私の記憶を整理した結果、マツチを本人が現場へ所持して行つた旨の供述があつたことが私の記憶にある。ただ、本人がマツチを用意して行つたにもかかわらず、それを使わないで侵入したときに工場内の目の前に偶然あつたマツチを取り上げてそれを使用したという点に、いささかその心理過程に疑問があり、不審に思う。」と証言した。

(二)  証人松田伝治は、「私は昭和一六年四月から終戦当時まで釜山地方法院の予審判事として勤務し、その間に、金森および于文柱の予審を担当した。金森に対する起訴事実、予審終結決定の事実は、いずれも大邱覆審法院の判決に記載された犯罪事実と同様であつた。金森に対する予審取調にあたつては、検証をし、金森の妻を含め関係証人全部を調べた。そして、金森の警察、検事局における自供を裏付ける証拠は、全部詳細に調べた。金森は、警察、検事局の調書では『表門を越えて構内の朝鮮製綱の入口から同工場にはいつて、粗紡機のある工場建物の西側通路を通り、同建物内東北隅の麻屑を積んであるところにマツチで火をつけた』という供述をしていたが、金森が予審の取調の際に放火を自白していたか否認していたかは、はつきりしたことは言えないが、金森は『警察、検事局では自分のいうことを取り上げてくれない。』というようなことを述べていたような記憶があるから、否認していた方が濃厚である。……しかし、刑務所の看守が、私が于文柱の事件で服役中の金森を証人として調べた際のことを視察表に書いて、それに、私が金森に対し『予審廷においてなぜ真実に申さんのか。』と問うたのに対し、金森が『警察署、検事廷、予審廷は互いに連絡あるものと思つて申しません。』と答えた旨記載しているとすると、予審廷では認めていたのかもしれない。また、現場検証の際、犯人を目撃したという女工らを取り調べた際女工らは『金森によく似た国民服を着た人が門を越えて朝鮮製綱所にはいつて行つた。』と証言した。そして、金森につき有罪の予審終結決定をして公判に付した。ところが、金森の有罪判決が確定して、金森が服役中に、于文柱という中国人が朝鮮の人心攪乱の目的で釜山の太平館、本件の朝鮮製綱、京城の三、四ケ所などに放火したということで検挙され自白したので、検事局の方も相当あわてて朝鮮製綱の放火の点に力を入れ、于文柱の自白に基づいてその裏付捜査をして、他の事件とともに同人を起訴し予審請求をして来た。私は、金森の事件記録を取り寄せて検討するとともに、于文柱を連れて現場検証をし、同人に指示説明させ、金森の事件のときに取り調べた女工らを証人として調べた。于文柱は、検事に対する調書では『自分は中国のスパイで、朝鮮の人心攪乱の目的で放火した。朝鮮製綱へは、その小門を越えて同工場にはいつて、工場建物の粗紡機のある部屋の東北隅あたりの麻屑が積んであつたところへ火をつけた。』旨一貫して自発的に供述していた。予審の現場検証の際には、于文柱に対して侵入経路、火のつけ方等について詳細に聞いたところ、同人は『小門を越えてはいつた。』と述べ、前に金森が供述していたのと同じとおり指示し、『工場建物東北隅あたりに、暗がりでよくわからんが、麻屑のようなものがたくさん積んであつたから、そこへマツチで点火した。』旨供述していた。……小さい門の内側に柵があつたということは記憶にないが、もし小さい門があいていたとすると、柵を越えたということになると思う。現場検証の際、前に金森の事件のときに証人として調べた女工らを証人として調べ、国民服を着ていた于文柱を現認させたところ、女工らは『この人に似ている。』と証言したけれども金森の際に述べたと同様、断定はしなかつた。……さらに、京城刑務所(注・視察表写によると大田刑務所ではないかと老えられる。)で服役していた金森を証人として調べたが、その際、金森は『判事さん、私は絶対にやつておりません。あのときのことは、私は霊感で……国防色の服を着た男が表門の小門を越えて製綱所の入口から出て行くのを見たことは絶対に間違いない。その男は出て行くとき、非常にたやすく門を越えて行つた、あれは運動選手でなければ絶対にできないと思う。』旨述べたので、私は帰つてから于文柱を調べた際『君、何か運動をやるか。』と尋ねたところ、同人は『陸上の選手をしていた。』と述べていた。私は、いろんな点を総合して、朝鮮製綱の放火の真犯人は、于文柱に間違いないという確信を持ち、予審終結決定をして公判に付した。于文柱に対する起訴罪名は、忘れてはつきりしないが、戦時刑事特別法違反、国防保安法違反というのがあつたかもしれない。……私は検事正、次席検事らに対し、金森について再審請求手続をとつてやるよう依頼して帰国した。……私自身、二〇何年間この事件のことは忘れたことはなかつた。」と証言している。

(三)  証人大橋光男は、「私は、昭和一六年八月から終戦のときまで憲兵として釜山憲兵分隊に所属し、于文柱検挙当時は憲兵軍曹で同分隊特高班に属していた。昭和一八年一二月五日の夜、先任宿直下士官として宿直中、翌六日午前四時頃、当時軍の指定軍需工場となつていた朝鮮重工業の火災が発生し、憲兵隊でもその原因を究明することとなつたが、当時大邱憲兵隊から、中共八路軍や国民政府軍の諜報活動が盛んで朝鮮、満洲に潜入して放火謀略を計画しているという情報があつたので、私はこの面から捜査することとし、同工場近くに居住する中国人華僑の行動調査をするうち、中国人七、八名による麻雀賭博を探知し、これらのうち、平和楼の店員許作旗、房硫芝、某の三名が六日の午前三時半か四時頃から五時頃までの間に中座し、そのため麻雀ができなくなつたことが判明し、右三名を逮捕して追及したところ、が『私は牧之島へ一緒に行つたけれども、お前はここで待つとれというから橋の上で待つていると、朝鮮重工業が火災になつて、二人が走つて帰つて来たから三人で平和楼に帰つて来た。』と述べたので、許作旗、房硫芝を徹底的に追及した結果、朝鮮重工業外数ケ所の放火を自白し、それは、『昭和一八年春頃、山東省に帰つた中国人の同志于文柱から頼まれてやつたもので、于文柱は自分でも、朝鮮製綱、宝水町の市場、兵站病馬廠などに放火している。』旨供述したので、大連憲兵隊に于文柱の逮捕方を依頼し、同憲兵隊員において、昭和一八年の暮頃か昭和一九年の正月頃、山東省芝罘で相当苦心のすえ于文柱を逮捕し、私が大連に出向いてその身柄の引渡を受けたのであるが、于は八路軍中尉の下で密偵のような仕事をしていた。房硫芝は多分二十二、三歳で、于はそれより二つ三つ上だつたと思う。その際、私が于文柱に対し、許作旗と房硫芝の写真を見せて、なんでつかまつたかわかつているかと尋ねると、同人はわかりましたと言つて観念したようであつた。私は、于文柱をまず鎮海の憲兵隊官舎に、その五日ほど後に釜山の憲兵隊に連行し、私と堤軍曹の二人がその取調に当つた。于は、日本語は片言で、朝鮮語はうまかつた。于文柱を鎮海に連行して取り調べた際、同人は、まず、朝鮮に来た経歴を述べ、仁川でずつとおつたと言い、仁川、京城の市場での放火を自白したが、釜山に来てからのことについては、なかなか口を割らなかつた。しかし、許作旗や房硫芝が于の犯行について供述していると思つて観念したものか、二日目ぐらいから、私が放火先を言わないのに、釜山の兵站病馬廠、朝鮮製綱、宝水町の市場等に対する放火のほかに、許らが供述していない列車顛覆計画、宇垣総督暗殺計画についてまで自白するに至つた。于を取り調べた際、許作旗や房硫芝の写真をまた見せたところ、于は知つていると言つて、みずから同人らの名前を言い、自分は『釜山で房硫芝の中華料理店に住込店員として働いていたが、房とは同じ年頃なのでよく気が合つた。その店へ許作旗が同じような商売をしていた関係で出入りし、同人も同じ年頃なので、三人は友だちになり、年に一回ぐらい、三人が一人ずつ交替で郷里(山東省)に帰るときは土産を持つて帰つてもらうとか、映画を一緒に見に行つたり、一緒に飲みに行つたりしていた。自分は、山東省にいたとき、八路軍の中尉から、日本の後方を攪乱し、日本の経済力を弱め、日本の中国征服の野望を打破するため放火するようにと言われ、房の家で許作旗や房に対し、日本の経済力を消耗させるため放火するように言つた。そして、自分がその見本を見せてやるということで、兵站病馬廠と朝鮮製綱に放火した。』旨を供述していた。そして、鎮海に連行してから五日目に、于文柱を釜山憲兵分隊に連行し、それから約一ケ月間留置し、証拠固めをしたが、その間、于は自白をひるがえすようなことは全然なかつた。于文柱は、憲兵隊の朝鮮製綱での現場実況見分の際、『晩の九時半頃に兵站病馬廠に放火して駆足で朝鮮製綱に行き、様子をうかがい、人がいなかつたので、表門の木製の大門からそれを飛び越えて構内にはいつて行つたら、自然に工場の中にはいつて行つたが、誰もおらず、暗いので機械か何かで頭を打つてけがをした。見たところ、綿屑のようなものがあつたので、家から持つて行つたマツチで火をつけたら、パツト燃え上つた。それで、もと来た道をまつすぐに、また門を飛び越えて逃げた。そのときも誰もいなかつた。』と供述したが、現在、私は于の工場への侵入口については全然記憶はなく、また于がモーター室にあつたマツチを使つたというような記憶もない。于はタバコをすわないと言つていた。許、房、らは自白しなかつたので、宙吊りにしたり、寒中水風呂につけるなどの拷問を加えたが、同人らの自白は虚偽のものではない。于文柱に対しては釜山憲兵分隊での取調の際には、日時がちがつたり、諜報組織や指揮系統について口をとざしたため、竹刀でたたくことはしているが、同人にはそれ以上のことをする必要はなかつたし、鎮海ではそのようなことはほとんどやつていない。于文柱は強制拷問の結果自白するようになつたものではない。于文柱が化学薬品を用いて相当の時間が経過してから発火するという放火の方法をとらないで、マツチを用いて点火するという幼稚な方法をとつたということは、知識程度の低い当時の中国人のスパイとしては十分ありうることと思う。病馬廠の事件は電気の過熱による火災として処理した。于文柱の事件については、逮捕のときから特高班長の森下准尉に報告しているが、当時森下班長は他の事件で多忙だつたので分隊長が直接指揮されたように思う。于文柱らの事件は検事局に送つたが、送致前に、検事からか、判事からかはつきり記憶にないが、朝鮮製綱に対する放火については、前に犯人がおつて受刑しているということは聞いた。この事件が判決を受けないと、その人は釈放にならないんだということも聞いた。于、許、房の三人は起訴され、は不起訴になつた。于らについての第一回公判が開かれ、公判があるから傍聴にこんかと電話がかかつて来て、行つたように思う。公判では、于や許、房は事実を認めていたと思う。第二回公判は、その前に許が獄死したということで、開かれず、その後終戦のため公判は開かれなかつたと思う。于や房がその後どうなつたかは知らない。私はこの事件を検挙したことで堤軍曹とともに大邱憲兵隊長から表彰状をもらつたが、こういう大きな事件であつたので、何か記念に残しておこうと思い、意見書をタイプで打つて、私と堤が各一部持つていた。表彰状は余り大きいので終戦後焼き、タイプした意見書は、復員するとき船上まで持ちこんでいたが、下船の際検査があるというので、下関の湾内に捨てた。」と証言している。

(四)  証人森下保雄は、「私は、昭和九年九月から終戦のときまで憲兵として釜山憲兵分隊(昭和一九年八月からは釜山地区憲兵隊本部)に所属し、于文柱検挙当時は憲兵准尉で同分隊特高班長をしていた。昭和一八年に当時憲兵学校を卒業して新任されて間のない上岡進伍長が中国人数名の賭博事件を探知して来たので、大橋軍曹をその指導にあたらせ、捜査したところ、それまでに釜山に起つた四件の火災につき、于文柱河陳東らが放火したことを自白し始めたので、堤軍曹らをもこれに参加させ、取り調べさせた。当時、憲兵隊では于文柱が代表的な人物のように言われていたので、朝鮮製綱の放火犯人も漠然と于文柱だと思つている。私は朝鮮製綱の事件には既に金森という人が有罪判決を受けて、その当時服役中であることは知らなかつたし、下士官連中もそういうことは知らなかつたと思う。自分は直接その取調に当つておらず、部下の報告を聴き、また時々取調の状況を見た程度であるが、これらの中国人のスパイに対しては相当苛酷な取調がなされ、寒中水につけたり、天井に逆づりして鼻に水を入れたりするのを見ている。于に対しては防火用水につけたり出したりしているのを見ている。そして、スパイであるという于らが憲兵隊の調べた諜報組織の系統上明確でなく、かつ放火の方法が単純であること、一晩や二晩で容易に自白したと聴いたことなどから考えて疑はあるが、中共八路軍系謀略犯人検挙に関する件として上司に報告し、憲兵司令部から賞状が授与された。」旨証言している。

(五)  証人堤初男は、「私は昭和一六年頃から終戦のときまで憲兵として釜山憲兵分隊に所属し、于文柱検挙当時は憲兵軍曹で同分隊特高班に属していた、昭和一八年一二月深夜、釜山の朝鮮重工業に火災が発生し、憲兵隊において中国人のアリバイを洗つていると、中国人数名が麻雀をしているときに、丁度火災発生の頃、許作旗、房硫芝、ム某らが中座したことが判明し、私と大橋軍曹とで許作旗を追及したところ、その放火を自白したので、許、房の家宅捜索をしたところ、いくつかの火災の新聞切抜きが発見された。これは切抜きをなんらかの方法で送り結果報告をするためである。さらに追及した結果、山東省芝罘にいる中共八路軍大隊長室弁公室の于文柱からの指令によつて放火したもので、ほかにも太平館、朝鮮紡織などにも放火したことを自白した。それで于を逮捕して、まず鎮海に連れて来て、大橋軍曹が主任となり私と二人で于を取り調べた。于は仁川、釜山の太平館での放火を自白し、その事件は、自分も于を連れて実況見分に行つたのでよく覚えているが、朝鮮製綱の件は自分は担当していないので知らないし、兵站病馬廠の件は記憶にない。于は、取調の最初は自白しなかつたが、許や房が供述しているのを知つて概念したのか、二、三日後には自白したと思う。許や房らは憲兵隊に約一〇〇日間、于は約五〇日間留置したと思う。許、房、ムらに対しては相当苛酷な取調がなされ、これらの者に対して、寒中氷水をかけたり、たたいたり殴つたりした。于文柱に対しても、氷水を頭からぶつかけたりした。森下さんは于文柱が真犯人かどうか疑わしい趣旨の供述をしているそうですが、森下班長は自分で直接于の取調に当つていないし、于が早く自白したのは許作旗らに対する取調ができていたからで、その疑問は当らない。于の事件は四件の放火だつたと思う。」旨証言している。

(六)  証人毛利一男は元朝鮮製綱株式会社および日本帆布合名会社の代表取締役、証人岩田祥一は元右両会社の工場長、証人林田重生、同松村正治は元朝鮮製綱株式会社の社員であつたものであるが、右証人四名はいずれも、本件確定判決が放火の動機として判示する点につき「金森と小路梅市が不仲であつたということは知らない。金森は野球をし、明朗な性格で世話好きで仕事熱心であり、出火当夜も一生懸命で運動会の準備をしていたのであつて、放火をするような人とは信じられない。」と証言し、さらに証人毛利は「前岡英明ほか会社の幹部や保険会社員が保険放火の嫌疑を受け、私は約四〇日間留置された。私は拷問を受けなかつたが社員は相当やられたようで、飛行機責め、木に穴をあけて身体を押し込み水を飲ます、鼻に水を入れるなどの話を聞いた。金森と留置場で会つたが、ぐんにやりしていた。金森が服役した後、現場検証があり、私が立会したが、工場の通用門のところに犯人を立たせて、その後姿を誰かに見させていた。あとで、八路軍のスパイが犯人として現われたと聞き、やつぱり金森ではなかつたと思つた。」旨証言し、証人岩田は「金森が放火するような原因は考えられない。金森が小路に対して恨みを持つことはないと思う。小路は日本帆布の職員であつて朝鮮製綱の職員ではないから、もし、金森が小路を責任上失職させて復しゆうするつもりなら日本帆布の工場に放火するはずである。朝鮮製綱は軍の管理工場であつたから、当時の警察としては何とか形をつける必要があつたことと思う。私も四〇日間留置されたが、当時の警察は無茶であつて、大阪の前岡の指令で放火したであろうと責められ、飛行機だとか、鼻から茶びんで水を入れたり、拷問をやられた。刑事と心易い私でも後手を回わしてつられたことがある。留置場の中で夜間、拷問を受けるような絶叫がよく聞えた。保険詐欺に結びつけようとして関係会社全部、私の郷里まで調べに来たが結局、金森が犯人ということに決つて、私らは釈放された。しかし、私は絶対にそれを信用しなかつた。金森の服役後、編笠をかぶつた男が連れられて現場検証があつたが、私は所用で外出し、あとで、毛利社長からその男が放火の実演をしたと聞いた。私は金森は無罪だからすぐ帰ると思つた。」旨証言している。

(七)  請求人は、当裁判所の疑問に対し「私は無実である。私は出火当夜夜勤で工場に出、工場を回つてから、事務室で七、八名の者と一緒に、一〇月七日に行なわれる会社の運動会の準備をしていたが、九時半の休憩の合図の鐘を私が工場へ行つて振り、事務室に帰つてまた準備をしていると、小路梅市が事務室に来て、『自分は帰るから工場の中にはいつてくれ、こんなところに幹部がおつたらいかん。』と言われたが、別に強い言葉ではなかつた。それから私は九時四五分の休憩終了、仕事始めの合図の鐘を工場へ振りに行つて事務室に帰りあと片づけをしていると、製綱の工場から出火したので、初め防火の手伝をした後、すぐ帆布工場の女工を退避させた。朝鮮製綱の方は焼け、両工場の間にある日本帆布の便所の板塀が焼けた。私は一〇月三日の午後、釜山警察署に呼び出されて逮捕され、その三日程して岩田祥一、毛利一男、前岡英明ら会社の幹部や保険会社の社員らが逮捕されて来た。私は井上刑事部長や、韓国人の金本刑事に調べられ、『植民地の拷問の味を知れ。』と言われて、仰向けにして口に水を入れられたり、鉛筆を二本合わせて指の間に入れて締められたり後手に縛られて天井につり上げられるなどされて、前岡英明に放火を頼まれたやろ、と一〇日ほど追及されたが、覚えのないことなので知らんとつつぱねていたが、そのうちに外の人は皆出てしまい、私が一人になつたので、公判で宣誓させられたときに本当のことを言えば公判でひつくり返せるものと思つて、検事局に回わされる前日で、留置されてから五九日目に、小路に恨みがあつて放火した、とうその自白をしてしまつた。検事局では韓国人の平賀検事に調べられ、最初否認したところ、房で革手錠をはめられた。検事、予審判事に対しても否認し、公判でも否認したが、通らなかつた。仮釈放後も無実を訴え続けた。私は火災の直前事務室にいるとき、国防色の服を着た男が通用門の内側の事務室に接している約一メートルの高さの柵を飛び越えて出て行くのを見たが、それが犯人と思う。」旨供述している。

(八)  熊本刑務所長から大阪高等検察庁検察庁検事に対する回答書添付の金森に対する視察表の写によれば、昭和一九年五月二〇日(注・京城刑務所在監中)に釜山地方法院長谷川検事外一名証人訊問に来所した旨の記載および昭和一九年八月七日(注・大田刑務所在監中)釜山地方法院予審判事松田伝治外一名証人訊問に来所し、その訊問の要旨として、「京城刑務所において国防保安法違反の事件について証人として尋問を受けたが、その際牧之島放火事件を否認したことは間違いない。警察署、検事廷、予審廷で認めたのは公判廷で真実を述べるつもりで、強制的な尋問に堪えかねて自白した。警察署、検事廷、予審は互に連絡があると思つて、予審廷でも真実を述べなかつた。昭和一六年一〇月二日午後九時過ぎて鐘が鳴つたので、表門の処に行つて休んでいた女工を工場内にはいらせ、勝手口をしめて事務所に来て休んでいると、作業始めの鐘が鳴つたので、工場に行き、作業にかかるようにして自分の仕事場に来て仕事をしていたら、表門のところでかたつと音がしたので、見たら国防色の服を着て髪を伸ばした年令二三歳くらいの男が表門を飛び越えて出るのを見てから約一〇分ぐらい過ぎて火災ということを聞いた。」旨の看守による記載がある。

(九)  なお、事件当時の状況を推認する資料として、弁護人から提出された写真ならびに写真撮影位置図、請求人および証人岩田祥一の供述によれば、本件当時、全敷地の北側のほぼ半分の敷地に朝鮮製綱の工場建物があり、南側半分のうちの、西側の半分に日本帆布の工場建物、東側半分に表門に接して事務室、社宅が並び、社宅と日本帆布工場との間に製品倉庫修理工場があつて、朝鮮製綱の工場建物の南側の壁は、高さ四、五メートルの煉瓦の壁となつていて、その中央部に朝鮮製綱工場への出入口、表門の近くにモーター室に通じる出入口が設けられ、また、その壁と事務室、倉庫、日本帆布工場との間は、表門から、敷地西端までつきぬける通路となつていて、朝鮮製綱と日本帆布工場との間の右通路の幅員は約二メートル半であつたことが認められる。

第四当裁判所の判断

よつて、再審事由の存否を判断するに先だち、まず、本件再審請求事件の準拠法について考えてみるに、日本の統治下にあつた当時の朝鮮総督府大邱覆審法院が請求人に対して言い渡した有罪の確定判決が、旧刑事訴訟法四八五条にいう「有罪ノ言渡ヲ為シタル確定判決」にあたるものとして、これに対し現在の日本の裁判所に再審を請求することができると解すべきであることは、本件再審管轄指定の請求に対する最高裁判所の決定(昭和四二年二月二八日)に詳細説示するところである。したがつて、本件再審請求事件については、刑事訴訟法施行法二条により、旧刑事訴訟法および日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律(以下単に「刑訴応急措置法」という。)によつて処理されるべきものと解するを相当とする(最高裁判所大法廷昭和三七年一〇月三〇日決定、刑集一六巻一〇号一四六七頁参照)。

ところで、旧刑事訴訟法四八五条六号は「有罪ノ言渡ヲ受ケタル者に対シテ無罪若ハ免訴ヲ言渡シ、刑ノ言渡ヲ受ケタル者に対シテ刑ノ免際ヲ言渡シ又ハ原判決ニ於テ認メタル罪ヨリ軽キ罪ヲ認ムヘキ明確ナル証拠ヲ新ニ発見シタルトキ」と規定し、無罪を言い渡し、または軽い罪を認めるべき証拠につき、それが「明確ナル証拠」であること(証拠の明確性)と、「新ニ発見シタル証拠」であること(証拠の新規性)との二つの条件を備えなければならないこととしている。ここに「新ニ発見シタル証拠」とは、原判決後あらたに発見された証拠である以上は、その存在が原判決の以前から継続するものであると、原判決以後あらたに発生したるものであるとを問わない趣旨と解すべく、また、「明確ナル証拠」とは、再審制度が、一旦確定判決があつたのちにおいて、実体的真実のために法的安定性を犠牲にする非常救済のための手続であるから、確定判決の基礎となつた事実認定に影響を及ぼすことが明らかな程度に、証明力が高度なものでなければならないものと解すべきである(大審院大正一三年九月六日決定、刑集三巻六六三頁参照)。そして、新証拠が数個ある場合において、法は、その証拠の一つ一つが必ずしも個別的に無罪を言い渡すべき「明確ナル証拠」であることを要求する趣旨ではないから、その数個の新証拠を総合して「明確ナル証拠」であれば足りるものと解する。

本件についてこれを見るに、前掲の各証言ならびに視察表の写が、いずれも、旧刑事訴訟法四八五条六号にいう「新ニ発見シタル証拠」にあたることは明らかである。問題は、右の新証拠が同号にいう「明確ナル証拠」といえるかどうかである。ことに、証人長谷川寛、同松田伝治の各証言中、女子工員らの「表門を乗り越えて行く犯人の後姿が于文柱によく似ていた。」旨の供述部分と、于文柱の「朝鮮製綱の工場内粗紡機付近の麻屑にマツチで放火した。」旨の自白部分、ならびに証人大橋光男の証言中、于文柱の右同旨の自白部分は、いずれも、第三者の供述を内容とするいわゆる伝聞供述であるから、旧刑事訴訟法ならびに刑訴応急措置法下においても供述内容に添う事実を認定する証拠とする場合には、それが特に高度の証明力を有するものであることを必要とする。よつて、まず、右女子工員らの供述についてみるに、その姓名を、請求人は、平治任珠、勝田尚任、崔相今、呉乙任らといい、証人長谷川寛は、李徳順、金粉伊、李淑伴ほか一名といい、合致しないが、これら女工の証言が金森有罪認定の重要な証拠であつたことに変りはない。そして証人長谷川寛は、「現場検証の際、前記女子工員四名に対し于文柱を見せる前に、犯人の服装、体格について供述させたのち、于文柱を見せたところ、『ああ、この人によく似ている。……前に金森に間違いないと言つたのは、女子監督の金某が金森に相違ないというので、自分たちには自信はなかつたが、そのように言つた。この人の方が形がよく似ている。』と供述し、なお『金森は口やかましかつたので韓国人監督に反感を持たれていたので押しつけられたのではないか。』と女工たちは述懐していたので、金某について確かめたところ、『女工たちから、国民服を着てこういうかつこうの者だという話を聞いて、金森よりほかにないので、金森じやないかと言つたのである。』という趣旨の供述をした。」と証言し、証人松田伝治は「予審の現場検証の際、前に金森の事件のときに調べた女工らに于を見せたところ、『この人に似ている。』と証言した。」旨証言しているが、長谷川証人は検事として、既に金森が服罪している同一の重大事件について、さらに于を起訴し、また松田証人は予審判事として、金森、于の両事件の予審を担当し、金森に対し有罪の予審終結決定をした同一事案について、さらに于に対し有罪の予審終結決定をして公判に付するという、いずれも司法官としてもきわめてまれな体験を持つたところから、女工らの供述内容について記憶が明らかであり、女工らも前に金森の事件の際に供述しているところから、于の事件の際の供述には慎重であつたことが推測され、右長谷川証人が女工監督の金某について女工らの供述の信用性を確めていることからみると、右両証人の証言およびその内容となつている女工らの供述は十分信用性があると認められる。つぎに、于文柱の自白についてみるに、前記証人長谷川寛、同松田伝治、同大橋光男の各証言を比較してみると、于が朝鮮製綱の表門のいずれの門から侵入し、いずれの門から逃走したかについては、長谷川証人は、正門の脇の通用門があいていたのでそこからはいり、逃げるときには通用門の扉が締めてあつたので夢中になつて正門を飛び越えて逃げたと供述していたといい、松田証人は、小門(通用門)を飛び越えてはいつたと供述していたが、小門があいてその内側に柵があつたとするならばその柵を飛び越えたということになると思うと証言し、逃走の際にどの門を飛び越えたかは同証言では明らかではなく、大橋証人は、木製の大門を飛び越えてはいり、逃走のときはまた門を飛び越えて逃げたと供述していたという。また、門をはいつてからの工場内への侵入経路および放火してからの逃走経路について、長谷川証人は、表門の脇にあつた二坪ばかりの工員の休憩室のような建物からはいり、反対側の板壁の穴を潜つて機関室を通り製綱の機械設備のある部屋へ行つた。放火してからその部屋の外に出、その西側通路を通つて構内の朝鮮製綱の出入口から、正門に通じる空地に出たと供述していたといい、松田証人は于は侵入経路等については金森が供述していたのと同様に供述し、金森の警察、検事局の調書では金森は、前記構内の朝鮮製綱の入口から工場内に入り、粗紡機のある建物の西側通路を通つて、同建物内にはいり、放火後もと来た道を通つて逃げたと供述していたといい、大橋証人は、大門を飛び越えて行つたら、自然に工場の中にはいつていつたと、放火後も来た道をまつすぐに逃げたと供述していたといい、大橋証人は、大門を飛び越えて行つたら、自然に工場の中にはいつていつた、放火後もと来た道をまつすぐに逃げたと供述していたが、現在、その侵入口については全然記憶はないといい、各証言の間には、くい違いがあるが、于の放火地点の供述については、長谷川、松田両証人の証言は一致し、大橋証人の証言も大体これに一致していると認められ、放火の方法として麻屑または綿屑のようなものにマツチで放火したとの点については、三証人の証言が一致している。しかし、三証人の証言の間に一致しない点があつても、何分にも二〇数年前の記憶をたどつての証言であるから、右の程度の不一致があつても、やむをえないところであつて、要は、右三証人の証言の一致する于の放火そのものについての自白の信用性が問題である。長谷川証人は、検事在職中を通じ、こういう特殊な事件は初めてで、最も感銘が深く、忘れようとしても忘れられない事件であるので比較的記憶も明白であると述懐し、于が憲兵隊で強制による虚偽の自白をしたのではないかと警戒し、その自白にとらわれることなく独自の観点から取調にあたり、かつまた、同じ事件につき金森が有罪判決を受けて服役していることを知つて、二重起訴となるため、五件の送致事実中、とくに本件の捜査に全力を傾けて慎重に取り調べ、于に対して放火の現場は暗くて何もできないではないかと尋ねたのに対し、于が「火をつけた付近は少し離れた部屋に弱い光の電燈がついていて、その薄ぼんやりした光で動作をするには支障がなかつた。構内を逃げる途中、鐘が鳴つた」との供述が、調査の結果客観的事実と一致し、于の自白が自然であるに反し金森の自白は不合理であることを確かめ、前記女工らの供述と相まつて、于を真犯人と確信して、あえて二重起訴し、その後上司に金森の再審手続を具申しているのであつて、長谷川証人の証言ならびにその内容となつている于の長谷川検事に対する自白は、十分信用性があると認められる。また、松田証人は、二〇年間、この事件のことは忘れたことがなかつたと述懐し、金森に対し有罪の予審終結決定をして公判に付した予審判事として、同じ事案につき起訴された于文柱の取調にはきわめて慎重な審理を遂げ、検証の際には于を同行させて犯行の実演をさせ、前に取り調べた女工らをして見分させて、さらに取り調べるとともに、服役中の金森を証人として取り調べて、于の従来の自白、予審での自白の信用性を確かめ、于を真犯人と確信し、あえて二重の予審終結決定をして公判に付し、検事正らに金森の再審手続を依頼しているのであつて、右松田証人の証言ならびにその内容となつている于の予審における放火についての自白は、十分信用性があると認められる。さらに大橋証人の証言ならびにその内容となつている于の憲兵隊における自白についてみると、証人森下保雄は于に対する憲兵隊での取調に際し、于に対して防火用水につけたり出したりしているのを見ている旨証言し、証人堤初男は、于文柱に対して氷水を頭からぶつかけたりした旨証言し、証人長谷川寛は、于は憲兵隊できつい拷問を受けたと言つて衰弱していた旨証言し、証人大橋自身も、竹刀たたくなどのことはした旨証言しているから、憲兵隊で于に対し強制を加えたことはうかがわれるところである。しかし証人大橋は、「于を大連から鎮海に連行した当初は、于は釜山の事件については口を割らなかつたが、二日目から、許や房らが供述していると思つて観念したものか、放火先をこちらから言わないのに朝鮮製綱に対する放火を自白した。鎮海に約五日いる間は別段強制を加えていないし、于はその後も自白をひるがえすようなことはなかつた。ただ犯行の日時がちがつたり、謀報組織や指揮系統については口をとざしたため竹刀でたたくなどのことはしたが、許や房らに対するようなひどいことをする必要はなかつた。」と証言し、証人堤初男も「于が連行後二、三日で自白したのは許らに対する取調ができていたからである。」と証言しているところからみると、前記強制を加えたとの点は朝鮮製綱に対する放火を自白したのちにおいて犯行の詳細に関しくいちがいがあつたり、謀報組織等を黙秘したためであると認められ、証人森下の供述は、于が許、房らが自白後に逮捕されたものであるのに、許や房らと同時に逮捕されたと誤解し、許や房に対する強制と混同して証言していると思われるふしが認められるから、右自白の信用性を否定する根拠とはならない。ただ、于文柱が逮捕される契機となつた許や房の自供を得るについて相当の拷問を加えたことが、証人森下、同堤、同大橋の証言によりうかがわれるから、証人大橋の証言は、于文柱の検挙ならびに取調の経過について最も詳細かつ確実であつて信用すべきものであるが、それのみをもつてしては、憲兵隊における于の自白の信用性について疑をいだかざるを得ない。しかしその後、長谷川検事が憲兵隊での于の自白が拷問による虚偽の自白ではないかと警戒して、その自白にとらわれることなく独自の観点から于を取り調べ、また、松田予審判事も同様慎重な取調をしてそれぞれ任意の自白があつたのであり、かつ、大橋証人の証言によれば、于は公判において事実を認めていたこともうかがえるから、于が大橋らに対して内容虚偽の自白をしたものとは考えられない。したがつて右大橋の証言の内容となつている于の自白の信用性を否定すべきではない。検察官は、その追加意見書において、証人長谷川の証言は、同証人によつて、はじめて于文柱自身の指示による検証が実施されたものであつたならば、于文柱の真犯人であるとの心証を得たゆえんも十分諒解しうるところであるが、長谷川証人による検証以前に憲兵隊による実況見分が行なわれ、その際、于文柱は現場の状況についての知識を得たはずであり、したがつて、長谷川証人の検証の際に于文柱が現場に見合う供述をしたとしても、真実性の薄弱な憲兵隊での自白と右現場で得た知識を基礎として供述した疑があるから、長谷川証人の証言をもつてしては、直ちに于文柱が真犯人であるとは断じがたい、というけれども、長谷川証人は于文柱が憲兵隊で拷問を受けたのではないかと警戒し、于文柱の憲兵隊での自白にとらわれることなく独自の観点から捜査に当り、放火地点から少し離れた部屋に弱い光の電燈があつて、薄ぼんやりした明りがあつたことおよび鐘が鳴つたとの于の供述が、取り調べた客観的事実と符合しており、ことに鐘が鳴つたとの事実は現場を見てもわからない事実であることに徴すると、長谷川証人に対する于の供述は十分信用することができ、したがつてまた、于文柱が憲兵隊の実況見分の際現場の状況について知識を得たとの事情を考慮に入れても、于文柱を真犯人と断じた長谷川証人の証言は十分信用性があるから、右の所論は採用しがたい。さらに、検察官はその意見書および追加意見書において、長谷川証人のいうように、于がスパイであるとするならば、放火を計画し、それに使用するために携行したマツチを使用せず工場にあつたマツチを使用するに至つた事情については、何ら解明されないままになつており、また、スパイが発覚しやすい幼稚な方法をとるものかどうか疑問であるというのである。しかし、携行したマツチを使用しないで工場にあつたマツチを使用することは、ありうることであつて、別に経験則に違反することではないし、また、大橋証人の証言によれば、当時の中国人スパイがマツチを用いて点火するという方法をとることも十分ありうることであつて、それぞれ、あえて異とするに足りないと考えられるから、右の所論も採用できない。そこで、請求人の自白の信用性について判断すると、前掲各証拠によると、請求人が放火を自白するに至つた経過からして、その自白の真実性に疑が持たれるが、さらに、本件確定判決の判示する動機および放火の方法は、請求人が小路梅市との折合が悪く、出火当夜、同人からさ細なことで注意されたのに憤激し、日本帆布の工場を焼さ払つて同人を責任上失職させて復しゆうしようと決意し、同工場に隣接する朝鮮製綱の工場内の製綱原料である大麻仕掛品にマツチで点火して放火したということになつているけれども、証人岩田祥一、同毛利一男、同松村正治、同林田重生らは、いずれも、さような動機の存在を否定しており、放火動機の存在が認められないのみならず、弁護人提出の写真、写真撮影位置図、請求人および証人岩田祥一の供述によれば、両工場の間には高さ四、五メートルもの高い煉瓦の壁があつて、延焼の危険が少なく、火勢が右煉瓦壁を越えて日本帆布工場に及ぶとすれば、工場事務室ならびにそれに隣接する請求人家族らの居住する社宅も焼失するおそれがあり、しかも、放火の時刻は日本帆布の作業中であり、その放火の地点は、朝鮮製綱の工場内で最も日本帆布の工場に遠い地点であることからみると、日本帆布の職長である小路を失脚させる目的からいえば、甚だ不適当かつ不合理な方法であり、かつ、請求人は、火災直前まで数名の社員とともに事務室に居残つて熱心に運動会の準備をしており、出火後女工を退避させたのち、社宅に住む家族の安否を尋ねたのであつて、家財持出など火災に対する準備はしていなかつたのみならず、工場の外部から侵入し、または外部へ逃走する機会はなかつたことが認められるから、請求人の捜査官や松田予審判事に対する外部からの侵入および逃走の自供ならびに確定判決の判示する放火の動機、方法は、いずれも信用しがたい。要するに、釜山警察署の捜査官は、当初会社幹部の保険詐欺を目的とする放火として取調を開始し、数十日を経たが証拠があがらないため、前記の女工たちの供述を根拠として請求人の恨みの放火として自白をさせたものと認めるべきである。そして、本件については、金森は釜山警察署において、于文柱は憲兵隊において、それぞれ拷問を受けているから、両者の各自のいずれを信用するかを判定することによつて、そのいずれが真犯人であるかを判断するほかはないのであるが、以上のところからして、于文柱に関する証人長谷川、同松田、同大橋、同堤の各証言、真犯人らしい者を連れて現場検証があつた旨の前記証人岩田、同毛利の各証言、金森に放火の目的が認められないことおよび火災当夜における金森の行動に関する右岩田、毛利ならびに証人林田、同松村の各証言、前記の視察表の写を総合すると、請求人金森の自白と犯人の後姿が金森に似ていた旨の女工らの虚偽の供述またはこれを録取した調書の供述記載を主要な証拠として金森を犯人と認定したのは誤であつて、本件放火の真犯人は于文柱であると認定すべき証拠が十分にあるといわなければならない。

そうすると、前掲の各証拠は、旧刑事訴訟法四八五条六号にいわゆる請求人に無罪を言い渡すべき明確にしてかつ新たな証拠であるというべきである。

よつて、本件再審請求は理由があるから、旧刑事訴訟法五〇六条一項により再審開始の裁判をなすべきものとし、主文のとおり決定する。(山崎薫 竹沢喜代治 尾鼻輝次)

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